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エピメデスは綴る

クレタ人はみな嘘つきだ、とクレタ人エピメデスは言った。

お前だってクレタ人じゃねぇか、という至極当然のツッコミは、永らく論理学の論題となった。エピメデスが正直者だとすれば彼の言った通り「クレタ人はみな嘘つき」なので、エピメデスも嘘つきでなければならない。だが彼が嘘つきだとすれば、彼の発言は信頼性を失ってしまう(*1)

エピメデスは正直者だったのか、それとも嘘つきだったのか?

話は変わるが「文章書きたるもの、屈強の嘘吐きでなければならぬ」というのが私の永年の持論であり、テーマであった。ただの一語に100の嘘を込めたかと思えば、100ページを費やしてただ1つの嘘を成就せしめる。嘘によって百万の軍勢を退け、地を割り空を裂く。その嘘は弾丸より速く機関車より強く高いビルもひとっ飛び。その嘘は山を越え、海を渡り、時空を旅する。その嘘は百人を怒らせ、千人を涙に誘い、万人を楽しませる。

そんな屈強の嘘吐きたるべし、というのが私の不変の目標であった。

その一方で、最近、文章を書くにあたって正直者であることも同じくらい難しい課題ではあるまいか、と思うに至った。嘘吐きであることの大切さはいささかも揺らぐことはないが、しかし、別の意味で、正直であることに課題を見いだす瞬間がある。

文章書きは、自分の見た“もの”を記述する仕事である。フィクション/ノンフィクション、抽象/具象の別によらず、書きたい“もの”、伝えたいvisionを文章にしなければならない。

visionを伝えるにあたっては、細大漏らさず書かなければいけないが、冗長に過ぎれば読みにくくなる。文章をさらっと読んだ時の印象が、その“もの”を見た印象と同じでなければならない。これはなかなか難しい極意だ。

最近、自分で推敲をする場合に、この種類の正直さ、誠実さというのが非常に気になるようになった。

一読する。
何か「ちょっと違う」感じを受ける。
直してみるものの、それもまだちょっと違う。
あれこれ語句を変えたり、前後の構成をいじる。
まだなんか違う。

そういう時に、嘘と知りつつOKとしてしまうか、あくまでも正直であろうとするか、それは一つの職業上の倫理とも言える。実際問題として、どうせ読み手には違いなどわかりゃしない。正直者でいようとすれば、手間がかかるし、時間がかかるし、何よりイライラする。よく文豪が原稿用紙をくしゃくしゃっと丸めて投げ捨てている図があるが、あれこそ、屈強の正直者の姿にほかならない。そんな手間暇イライラを押してなお、正直者で居続けるというのは、難しい課題である。

つまり、文章書きは嘘吐きであるのみならず、同時に正直者でもあらねばならない。visionを見る上では可能な限り屈強の嘘吐きとなり、幾千万の嘘を紡ぎ出す。一方そのvisionを人に伝えるにあたっては能う限り正直者となり、ありありと迫真のそれを伝える。

文章書きとは、嘘吐きであり、同時に正直者でもあるアンビバレントな存在なのだ。
――エピメデスは、もしかすると、屈強の文章書きだったの、かもしれない。

(*1)一般にエピメデスの自己言及パラドックスと言われているものだが、厳密には、この状態ではパラドックスにはなっていない。「クレタ人はみな嘘つきだ」の否定は「クレタ人には最低限1人の正直者がいる」である。
さらにいくつかの条件を付け加えればパラドックスとして成立する。(参考文献:『パズルランドのアリス』レイモンド・M・スマリヤン)

エピメデスは綴る
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