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「他人の聖書を読む」ということ

ある種の人たちは自分のやり方でしか仕事をしない。そして、違ったやり方が入ってくると舌打ちして「面倒だ」とか不満を言い始めるようだ。残念ながら、その事実そのものが、彼らの限界を示してしまっている。

能力のある人間は、適応力がある人間だ。本当に能力がある人間、最近の言葉で言う「地頭」のある人間は、どんなやり方でも高いパフォーマンスを発揮できる。それでこそ本当の力じゃないか。
そしてその適応力は、成長力にもつながる。新しいやり方のいいところを認め、取り入れることができるからだ。「自分のやり方に固執する」人たちは、新しいやり方を取り入れて成長することまで拒否してしまっている。

もし自分と違ったやり方でパフォーマンスを上げている人間がいるなら、「果たしてあれはどういうやり方だろうか」と興味を持って見てはどうだろう。いっそ、そのやり方を真似してみて「なるほど、このやり方にはこんないいところがあるのか」と発見したり、「このやり方にはこんな欠点があるから、別のやり方を併用すればよりうまくいく」と工夫したりということを、考えてみてはどうだろう。

いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、なんの役にも立たぬということを、世間はいつになったら理解するだろう。印刷屋は誤植探しのために聖書を読む。モルモン教徒はモルモン教の聖書を読んで、そこに一夫多妻制を見つけだす。クリスチャン・サイエンスの信者も、やはり専門の聖書を読んで、人間には手も足もないと考える。
――via G.K.チェスタトン「折れた剣」(『ブラウン神父の童心』収録)

「他人の聖書を読む」ということ
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