とあるリレーの勝負があり、10人の選手が選抜された。ところがエース選手のAくんは最も遅いランナーZくんを平素から嫌っており、ことあるごとにZくんを非難の対象にした。
レースの結果、チームは2秒差で優勝できず準優勝に甘んじた。Aくんは「Zのやつさえもっと早ければ勝てた」と主張し、チームの雰囲気も概ねそうした心証であった。
Aくんの主張は正しいだろうか。
Zくんはレース結果に責任を感じる一方、感情的に割り切れないものを感じ、全チームのタイムを検証した。幸いビデオが記録されておりタイムの検証は比較的容易だった。Zくんの調査の結果、興味深い事実がわかった。
優勝チームの最下位ランナーと比較して、Zくんのタイムは決して劣っておらずむしろ早かった。優勝チームとの決定的な差は、ほぼそのまま優勝チームの最速ランナーのタイムと、Aくんのタイムの差であった。
この調査を元に、Zくんは「チームの敗北は、エース選手のAくんの能力不足の責任である」と結論し、チームメンバーに発表した。
Zくんの主張は正しいだろうか。
チームメンバーは、Aくんに賛成する者とZくんに賛成する者がほぼ半々となった。
筆者の考え
読んだあなたはAくんとZくん、どちらが正しいと感じただろうか。チームの敗北は、どちらに責任があるか。
「どちらに責任があるか」と考えた人はもう罠にはまっている。結論は、チームメンバー全員に等しく原因と責任がある。チームの誰でも、2秒縮めていれば勝てたのだ。誰にも責任はなく、誰にも責任がある。
問題は、AくんとZくんが反目することにより、お互いを焦点に責任を押し付けようとしたところにある。そのため、Zくん責任論が生じたり、Aくん責任論が生じたりするのだが、いずれも間違い。感情に流されている。
スマホ責任論
さて、もし誰かが家事を怠ったのだとしよう。それ自体は問題があり、責任がある。解決すべき課題といってもいい。
しかしもし、そのことを「スマートフォンを弄る暇があったら」とか「いつもスマートフォンを弄っているのが悪い」と結論付けようとしている人物がいるなら、注意しなければならない。
家事を怠ることの原因として考えられるものはいくらでもある。朝寝坊したせいで時間がないのかもしれない。着替えるのが遅かったのかもしれない。食事をのんびりしすぎたのかもしれない。しかしそれらすべては等しく責任がある。一つの要因だけを取り上げる責任論があるとしたら、答えは「もともと嫌いだったから」にほかならない。
例えば「宿題をやらないのはファミコンのせい」とか「乱射事件を起こしたのはロックミュージシャンのせい」という人がいるとしたら、そもそもその人はファミコンやロックミュージシャンが嫌いなのだ。そういう人は「宿題をやらないのは読書のしすぎ」とか「乱射事件を起こしたのはボウリングのせい」とか言わない。
こうしたいいかげんな責任論には少なくとも二つの悪い点がある。
正しい解決ができない
家事を怠ることの対策をせず、「スマホを禁止すれば解決する」と考える。当然、解決しない。
弊害が大きい
スマホの効果やメリットを無視して感情で結論するので、弊害を無視する。
感情で批判するクセがつく
自分の嫌いなものに難癖をつければ排除できて快適なので、なんでも難癖をつけるクセがつく
解決方法
もちろん二つの問題を二つに分けて対処することである。
「スマホの使いすぎ」に対して提言をし、対策を考える。
「家事を怠る」に対して提言をし、対策を考える。
その二つを結びつける必要はない。
Aくんがやるべきだったことは、Zくんおよびチームメンバー全員のタイムを縮めるために、フォームの研究をしてお互いアドバイスしあったり、効果的な練習メニューを考えたり、チームのモチベーションを高めるための方策を考えたりし、チームに提言することだっただろう。そうした提言をZくん含め皆が受け入れることができたらこのチームは優勝できたかもしれない。
むろん、すべて架空の作り話なので、人生そううまくいかないのもご承知の通りである。