意見形成で大事なたった一つのこと
「自分の頭で考える」という言葉が持つ意味について。
人が意見を形成する上で気をつけなければいけないのは「自分が得ている情報が偏っていないかどうか」ということだ。
たとえば、夫婦げんかしている二人について、公正なジャッジをしようと思うなら、両方の意見を聞いた方がいい。私はたまたま、夫婦げんかしている両方の言い分を別々に聞いたことがある。これはまったく驚くほど食い違っている。夫は妻のここが悪い、だらしない、と話している。妻は夫のこんなところが酷い、つらい、と言っている。夫は「自分のこんなところが酷い」とは言わないし、思ってもいない。妻も自分がだらしないと言われていることについては反省していないし、下手をすると理解していない。だから一方の言い分だけ聞いていると、「ああ、ほんとに酷いねぇ」と同情しそうになるが、両方聞いてみれば、これはどっちもどっちである。マスコミで言う「両論併記」という奴で、この原則は公平性を保とうと思えば当たり前である。
どんな団体に所属しようが、何の組織に所属しようがそれは勝手だ。ただその組織に所属した瞬間から、その人に与えられる情報は、いい意味でも悪い意味でも偏り始める。往々にして、組織に都合のいい方向に偏る。だから、もし「自分の頭で考える」とか「自分の意見を形成する」と思っている人は、積極的に組織の外からの情報を取り入れなければならない。敵の言うことを聞き、そこにどんな理があるのか、自分が持っていないどんな情報を持っているのか、知ろうとするのだ。それが「自分の頭で考える」ということである。
「○○反対運動」とかに参加する人の意見が大抵において傾聴に値しないのは、そういう理屈による。彼らは自分たちの団体の中で団体に都合のいい情報だけを共有しており、そこに存在する意見はほぼ間違いなく偏っている。酷い場合には主張をすることが目的化しており、自分の主張に合致する情報を集めてくるようになる。公平さ、公正さとはほど遠い。
私が敬愛するチェスタトンの訳文を引用しようとして、「他人の聖書を読む」で検索したら自分のブログが出た(笑) 他にこの文章を引用する人いないんだな……。
いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、なんの役にも立たぬということを、世間はいつになったら理解するだろう。印刷屋は誤植探しのために聖書を読む。モルモン教徒はモルモン教の聖書を読んで、そこに一夫多妻制を見つけだす。クリスチャン・サイエンスの信者も、やはり専門の聖書を読んで、人間には手も足もないと考える。
――via G.K.チェスタトン「折れた剣」(『ブラウン神父の童心』収録)When will people understand that it is useless for a man to read his Bible unless he also reads everybody else’s Bible? A printer reads a Bible for misprints. A Mormon reads his Bible, and finds polygamy; a Christian Scientist reads his, and finds we have no arms and legs.
― G.K. Chesterton, “The Sign of the Broken Sword”, from “The Innocence of Father Brown”
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四半世紀昔、チェスタトンのブラウン神父シリーズを読んだ。理屈っぽいと思うところが多々あったけど、面白く読んだ記憶があります。
実はチェスタトンは私の卒論テーマなのです。英文科でしたので……といっても不真面目な学生なので、あんま読んでませんけど、ブラウン神父シリーズは大好きです。えーと日本語で読みましたけど(←不良学生)
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