清水宏『港の日本娘』

御園生涼子「映画と国民国家――映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」 上映+トークセッションで上映された清水宏『港の日本娘』の感想。
→「映画と国民国家――映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」上映+トークセッション | オーディトリウム渋谷

タイトルロールが「娘、本日の港」と書いてあるように見えたのはご愛敬。右から書くのがルールだった時代でございます。サイレントのモノクロ映画。

同時に上映された小津安二郎『その夜の妻』に比べると、だいぶ時代を感じさせる内容。古い少女漫画を読んでいるようなキモチになる逸品です。現代の視点で見ればツッコミどころが満載なんだけど、当時はこれをワクワクしながら、あるいは涙しながら見ていた人たちが大勢いたわけで、そういうキモチに思いをはせながら見るのもまたをかし。

横濱と書いてハマと読む、そんな横濱(ハマ)が物語の舞台。山の手の女学校に通う砂子とドラ(青くないしポケットもない)は、仲良し二人組。二人が憧れるヘンリーは、一度は砂子とつき合うものの、シェリダン耀子という新しい恋人に熱を上げるようになる。嫉妬に駆られた砂子は拳銃でシェリダン耀子を撃ってしまう。数年後、砂子が水商売の女となって横濱に戻って来ると、ドラとヘンリーは結婚していた。三人は旧交を温めようとするが、わだかまりとすれ違いがそれぞれを苦しめる。

というストーリーなのだが、細部にいろいろとツッコミどころはある。
たとえば砂子が入手した拳銃の出所はどこかというとヤクザもののヘンリーが持っていた銃なのだ。それも、ドラがヘンリーを真人間にするためにヘンリーから取り上げた銃なのである。しかしドラが、ヘンリーを信じておあげなさいよ、と優しく砂子を諭しながら、なぜそっと砂子の手に銃を滑り込ませるのかということについては、作中に明確な説明がない。どう考えても、これで殺れということのように思えるのだが。
あと、居間で蓄音機に合わせて、毛糸玉に両足をぐるぐる絡めとられながらも狂ったように踊り続ける砂子とヘンリーは何に取り憑かれているのか。それを見たドラは二人の仲に嫉妬するのだが、嫉妬よりは卒倒する方が似合う猟奇的なシーンである。まぁあの、ダンスに夢中になってる様子を表現したかったのはわかるが。

他にも、砂子が働く水商売の店から出て行く人物はなぜみな亡霊のように透き通って消えるのか(どうもスタジオセットのドアが開かないのではないかと思うのだが)、とか、砂子の店に来ていた紳士はなんだったのか(ストーリー上、当て馬でさえないが、エンディングのシーンにまでしたり顔で登場する)とか、いろいろ完成度を云々すれば枚挙にいとまが無い。

最近では、「中学生レベルの思い込みの激しさ」というような意味合いで「中二病」という言葉が流行っているけれど、マンガ文化とか、映画文化とかだって、文化レベルの発展途上においては、似たような「作り手の思い込み」が深く作品に表象されるのであろう、と思った。往年の映画文化に思いをはせるという意味で、面白かった。あの、主催者の意図と違っていたらごめんよ(汗) 映画文化への冒涜かにゃー……

清水宏『港の日本娘』

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