御園生涼子「映画と国民国家――映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」 上映+トークセッション

松竹メロドラマ二本を肴に、「映画を政治の言葉で語るのは野蛮か」という主題のトークセッションを盛り込んだ上映会に行ってきました。『映画と国民国家: 1930年代松竹メロドラマ映画』の刊行に合わせて、ということらし。
著者の御園生さんは学生時代の友人で、その御園生さんが立派な映画研究者におなりになったもので、私としても喜び勇んで応援しに行ったような次第。
→「映画と国民国家――映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」上映+トークセッション | オーディトリウム渋谷

会の構成は、まず小津安二郎『その夜の妻』を上映し、その後、御園生女史による基調講演の後、松浦寿輝氏(作家・詩人)、吉本光宏氏(早稲田大学)とのトーク。そして清水宏『港の日本娘』の上映ということであった。『その夜の妻』の感想はこちら。
小津安二郎『その夜の妻』 – Monologue – Mogalogue (モノローグ・もがろーぐ。)

基調講演では御園生女史が以下のような論題を掲げ、その後、松浦・吉本両氏とのトークとなった。

1.モダニズムの政治性
モダニズムは植民地主義的な地政学なくして語れないのでは?

2.1930年代と国民国家
i)第一次世界大戦後の民族自決の原則による、少数民族国家急増
ii)二つの大戦の間期におけるアメリカ資本主義経済の台頭、19世紀から続く世界経済の流動化の帰結
iii)トーキーの誕生、視覚的エスペラントの終焉

3.映画を政治の言葉で語るのは野蛮か
i)政治的な主題を扱った映画
ii)政治的意図によって作られた映画
iii)映画を政治的事象のアレゴリーとして扱う映画

松浦氏は「映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」という論題に対して「それは野蛮である。と同時に、学問は時に野蛮でなければ面白くない」とのこと。
吉本氏は「本書は1930年代の『松竹メロドラマ』を題材にとりながら、論考に“メロドラマ”という単語が登場しない」と前置きして、メロドラマ批評の歴史を踏まえ、誇張表現が多いメロドラマが時にどのように政治的な言葉と結びついてきたかを論じておられました。
御園生女子は「今後、メロドラマがアカデミアの中で持っている意義について、考えてみたい」とコメント。「映画が自分を読んでくれと言っているように感じる時がある」とも語り、映画に見せられる瞬間についても、語っておられました。

以上私なりに上映会をまとめた感じですが、アカデミアな議論についていくのムズカシイのよ! 私にはちと話が高度過ぎたかもしれません。表象文化論とかもーちょっと詳しくないと、キビシイなぁ(汗)

トークの後、清水宏『港の日本娘』上映。その感想はこちら。
清水宏『港の日本娘』 – Monologue – Mogalogue (モノローグ・もがろーぐ。)

御園生涼子「映画と国民国家――映画を政治の言葉で語るのは野蛮か?」 上映+トークセッション

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