経験しなかったことの価値 ――他生の教育論

私が時々考えることの一つに、「人は自分の経歴を肯定する」というテーゼがある。もうちょっと正確に言うなら「自分に肯定的な人間は、自分の経歴も肯定する」なんだけど、簡単に「人は自分の経歴を肯定する」としよう。

たとえば、私は少年時代、父の転勤に合わせて引っ越す、いわゆる転勤族だった。4~5年周期で転居をした。転居は決して楽しいものではなかったけれど、環境の変化に対する耐性をつけてくれたし、場所が違えば文化も違い、言葉も変わるという、頭ではわかっていたことを実感させてくれた。とてもいい経験であった……

というのは実感としていいんだけど、ずっと同じ場所で生活してきたという人にこれを伝えると、水掛け論になることが往々にしてあった。なぜかというと、その人は同じように自分の過去を肯定し、過去の経験から得たものがあるからだ。

人は自分の経験した通りの行動が、正しかったとある程度信じている。
だから、自分の子どもに旅をさせたいか、同じ場所で暮らさせたいかという議論になると、いろいろバリエーションはあっても、結局「自分と同じ経験をさせたい」という結論になりがちである。

逆に自分に否定的な親は「子どもには違う経験をさせたい」という主張をする。学歴のない親が子どもに高学歴を強いたりする例だ。これもまた同様に強固であり、意見を覆すのはなかなか難しい。

こうした議論が水掛け論になる理由は、どちらも「自分の体験に基づいている(≒真実である)」と信じているからだ。「自分が実際に転居を経験し、そこで実際に得たものがあるため、自分の主張は正しい」と信じる。経歴・学歴・門地といったものに、人は確信を持ちがちである。

冷静に、客観的に考えるなら、これは論理的ではない。自分が経験したものと、経験しなかったものを比較することなどできはしない。だって、「転居した方が良かった」というからには、「転居しなかったら良くなかった」という裏付けが必要じゃないか。

転居しなかったら、もっともっとすごく良くなり、成長し、今頃はひとかどの人物になっていたかもしれない。……とは、なかなか考えない。転居した結果に満足だからだ。

転居した経験と、転居しなかった経験を両方持って、それを判断できる人間などない。「学歴があって良かった」という人間は、同時に「学歴がなくて良くなかった」という判断はできない。それは矛盾してしまう。

だから、経歴・学歴・門地について語る時には、十分注意しなくてはいけないと思っている。あなたの意見は、単純に自分の経験を弁護しているだけかもしれない。あなたの意見は、徹頭徹尾間違っている可能性さえある。自分の子どもを「転居させるべき」という人間と「転居させるべきでない」という人間がいたら、どちらかは間違っている可能性がある。そしてあなたの意見は、あなた自身の経験を弁護しているだけかもしれない。

ここで改めて、もう一度冷静に考えたんだが、こうしたことは、果たして勝ち負けを競う必要があるのだろうか。

転居した結果にいいことはあるし、転居しなかった結果にもいいところがあるのだとしたら、そのどちらかを必死になって弁護することに、あるいは自分が経験しなかった方を否定することに、意味があるのだろうか。

厳密に研究をして、転居することに微妙にプラスがあったとして、それで子どもを転居させなければならない、という理由にはなるまい。転居させなくたって、立派になった人はたくさんいる。ただの一般論で、経歴・学歴・門地を選び取る、という発想は、既に狭量な匂いがする。

そんなことより、親がしっかりものを考えて、論理的で、広く大きく構え、経歴・学歴・門地などに一喜一憂せず、一般論に頼らず子どもの適正を見極めて、よく相談に乗ってやり、愛情を注ぐことの方が、どんだけ子どものためになるかわからない。

と言ってみたところで、子ども育てたことがないから、ホントに子どものためになるかわからない、というのが正直なトコだが。

経験しなかったことの価値 ――他生の教育論

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